連載:山本祐布子の「子どものいる風景」 山本祐布子の「子どものいる風景」 ときに不条理、ときに単純。子どもの「いいわけ」って深い
この連載は……
イラストレーター・山本祐布子さんのエッセイ。ふたりのお子さんと暮らす、家族の日々を綴ります。
vol.19 いいわけ
少し寒くなると、次女はいつも鼻をたらしている。いつも。いつも。豪快に鼻からつつつとたれた鼻水を、そのままなにも気にすることもなく、平気で過ごしている。私もそんなにまめなほうではないが、とくに人前などでは気をつけて鼻を拭いてあげようとするのだが、いつも次女はそれを激しく拒否するのだ。
どうして? 鼻の下がいつもたらたらでは、あまりにも気持ち悪いでしょう?
という私の問いに、次女はニンマリと答える。
「鼻水(時にそれは、鼻くそでもあったりします、はい)は、さーちゃんの大切なお友達なのー。それでね、お腹がすいたら、いつでもそれを食べるの!」
あいた口が塞がらぬとは、こういう時に使う言葉なのでしょう。
お友達!? それなのに、お腹がすいたら、食べる、ですとー!?
長女の髪の毛が、目にかかるくらい鬱陶しく伸びてきた。美容院には行きたがらないので、私が自己流で時々切るのだが、首に髪の毛がつくとかゆくて痛くて、とても気持ちがよいものではないらしい。
なので、今回も、切る?と言っても、いやだの返事。
でもそろそろ限界。もう、切ろうよーと声をかけると、このいいわけ。
「みーちゃんの学校の帽子、ちょっと大きいから、とれちゃわないように、頭をふくらませておかなくちゃいけないの。」
これには私も大笑い。
子どもたちは、よくもまあ、たくみにいろんないいわけを考えます。それは時にずるかったり、親にとっては不条理だったり、でも、なんだかおかしくて、とっぴょうしもなくて、後になって思い出してはくくくと笑ってしまう私なのでした。
本当にばつの悪い時のいいわけは……
でもね、こればかりはなぜなのか、聞きたいことがあります。
ある日、学校から電話があり、
「みとちゃんは、いつも先生にもお話をしてくれなくて、友達ともほとんどしゃべりません」
それ、知ってます。幼稚園の頃は年中の後半まで、ほとんど誰ともおしゃべりができず、ずっとだまったまま、いつも友達の様子を離れたところで見守るような子でした。またですね。
授業参観で私がそばにいても、うつろな顔をして、先生にはおどおどとした態度でなにも話すこともできず、下をむいているばかりです。
いつも、家や、庭で見せてくれる生き生きとしたみとちゃんが、どこにもいない。
おしゃべりだって、気遣いだって、こんなに得意で明るい性格なのに、学校ではそれをどうして見せられないのかな。
わけを聞いても、
「はずかしいから」
と言うだけ。
子どもは、本当にばつの悪い時のいいわけは、単純。本当は、そんな言葉では表せないような、いろんな心のことを、処理しきれないのかもしれない。そんな時のいいわけは、単純で、一般的。
だから、私たちは待っているよ。いつかこんなことがあったと振り返る時、私たちがひざを打って大笑いして、「なーーんだ、そうだったのー」と、納得できる、独創的ないいわけを。
でたらめでもいいから、待っているよ。
見守るほうも、大変です。