連載:子育てエッセイ 坂上みきの「君はどこから来たの?」・10 子育ては「追憶の旅」です
ラジオパーソナリティ・坂上みきさんの人気連載!
ひょんなことからニュージーランドの男性と出会い、
紆余曲折を経て、息子が生まれた!
日々雑事に追われつつ、その感慨をかみしめる新米ママの
一喜一憂を大公開。
この連載は……
結婚後、大きな決心をして、子どもを授かるに至ったラジオパーソナリティ・坂上みきさんが、一人息子との触れ合いや友人たちとの会話を通して遭遇するさまざまな感情をストレートに伝えていきます!
今は亡き母を想い、気風のいい女を目指すのだ!
母は67歳でなくなった。脳腫瘍だった。
私が41歳の時のことで、その後、私が、マンションを買ったことも、結婚したことも、子供を持ったことも、知らないまま逝った。
親不孝だったと思う。
電話で話すたびに、「一人で生きていくんなら、ちゃんと家くらい持ちなさいよ」
「それよりなにより、誰とでもいいから、一度は結婚しなさい」
「子も授かれば、御の字だし」と、何かにつけて口うるさく言われ続けてきた心配事は、亡くなってから、すべてかなった。
あとの祭り。
報告したら一番喜んでくれるはずの人がそこにいないというのは、どこか未完成のような、100%手放しでは喜べない、小さな欠落感が付きまとう。
特に、子供に関しては、どんなに喜んでくれたことだろう。
老体に鞭打って、大阪と東京を何往復もしただろうし、「甘やかしすぎ!」などと娘(私)に叱責されながら、孫である息子が「欲しい」と言ったものは、なんでも買い与えたに違いない。
そんな光景を目にしたかった、と願うと同時に、子育てに行き詰まると、「こんな時、母ならどうしただろう?」と思いを馳せ、幸せを噛みしめた時には、「母もこんな風に、感じたのかな?」と遠い遠い記憶を手繰り寄せる機会が、圧倒的に多くなった。
それを、何かのインタビューで、少々カッコつけて、「子育ては『追憶の旅』です」と答えたことがあるが、偽りなく、まさにそんな気持ち。子育てしながら自分が育てられていたあの頃に遡ることは、欠落感を埋める作業であり、心の浄化作用でもある。
基本は、子供のために生きた人。
小さいころに戦争を体験しているので、倹約・節約が体に染みついていた。
かといって、ケチというのとは違う。子供が本気で欲しいと願ったものに関しては、最高のものを与えてくれた。
例えば、8歳でピアノを始めた時には、スタンダードな黒のアップライトを店の人が薦めてきたが、私は、レアな深い濃い紫色で、猫脚が美しい優雅なピアノに一目ぼれし、その前からじっと動かなかった。鍵盤は象牙で出来ており、確か平均的なものの3倍ほどの値段が付いていたかと記憶する。
母は「それにするんやね」、と一言、私に念押しし、「じゃあ、これ、いただきます」と即決してくれた。
決してお金持ちではない。かといって困窮していたわけでもないが、昭和のいたって中流家庭で、そこそこの痛手だったろうに、「買ったからには、練習してもらわないと」とか、「結構な出費だった」などと愚痴ることなど一切なく、気風がよい、というか潔かった。
今、自分はどうか?
100均で、そこそこ楽しめたりするのをいいことに、「ここでなら、いくら買ってもいいよ」と口にしてしまったり、多少値の張る(ったって、大したことないのだが)おもちゃを、買ってすぐに放ったらかしにしていたりすると、「いくらしたと思ってんのよ?」的なことを口にしてしまっている、セコイ自分がいる。ああ情けない。
どう見たってつまんないものを、「欲しい欲しい」と粘られた時に、「ダメよ、少しは我慢しなさい」と闘うのも骨が折れるもので、日和ってしまったり、とことん頑張ってみたり。自分のお疲れ度で、コロコロ変わる。要は、そこに方針がない、というか、筋が通ってないのだ。
言い訳がましく言わせてもらうと、今の世の中、ピンからキリまで、モノが溢れすぎている!
もう一つ言い訳すると、今はまだ大きな選択の時期ではない。ここゾ!って買い物では、私だって、「よっしゃ!買うたる!」と札束で頬っぺた叩くくらいの気概は持ち合わせておる!つもり。
息子にとって、テコでも動かない、「絶対これが欲しい!」とねだるものは一体、何なのだろう。ワクワクするなぁ。買える範囲にしてね。
昭和に生きた母娘の懐かしきウランちゃん!?
ピアノで思い出したことがある。発表会の服は母の手作りだった。
これも昭和のお母さんは皆そうなのかもしれないが、洋裁が得意だった。
時は、高度経済成長期。商売を始めたばかりの父とその手伝いをしていた母は、毎日フルで働いていた。が、時々、父が、突然思い立って「明日、海に行くぞ」などと言い出す。家族サービスのつもりだったのだろう。
そんな時、母は必ず、私と、ひとつ年上の姉と、姉妹お揃いの洋服や水着までも! 何もそんなに頑張ることもないのに、子供が寝静まったあと、徹夜して作ってくれた。夜中、眠りが浅くなった折には、必ず、カタカタと足踏みミシンの音が、心地よく耳に響いてきたものだった。
早朝、出来上がった洋服を「わぁ~」と感嘆し、私たちは、父の買ったばかりのブルーバードに乗り込み、海を目指した。
アレンジも得意だった。
鉄腕アトムの妹、ウランちゃんが編みこまれた真っ赤なセーターがお気に入りで、もう着れませんってくらい着倒したあと、母はある日、ウランちゃんはそのままに、学校の椅子にくくり付けて使う座布団に作り替えてくれていた。
おかげで、ウランちゃんを冬中、尻に敷いていた。
大人のファッション誌からパクったこともある。
時代はミッドセンチュリー。ピエール・カルダンのデザインを完コピしたモダンなジャンパースカートは思い出すだにうっとりする。濃紺で、形は素っ気ないストンとしたシンプルなものだが、胸の中央に、ポッカリと直径7~8cmほどの、丸い穴が開いている。下に赤や黄色のタートルネックを差し入れると、窓のように空いた穴からその色が鮮やかに顔を出すというもので、女子の羨望の的だった。
ああ、あれは、どこへいってしまったのかな?「捨てる」ということが一切できなかった母のこと。今でも実家を掘り起こせば、どこかに眠っているかもしれない。こうして思い返すと、手作りは、思い出がふくよかで、甘美だ。
はてさて、自分はどうだろう?
ずっしりとした思い出作りに、手作りをしてあげているだろうか?
今の世の中(またしても!)、体操着の袋だって、お弁当の袋だって、「トイストーリー」でも「ミニオンズ」でも好きなキャラクターものが、ネットでクリック、即座にゲット、プライムで明日到着!って、まぁ、忙しいママの味方、便利な世の中になりましたわい。
思い出も希薄になりそうだな。息子に
「ママってさぁ、いったいどんな人だったっけ?」って言われちゃうかもね。
なんて、今でも生きていたら、母とそんなことで笑いあえたかもしれない。
「会いたいなぁ」。と夢見心地で言うと、「いたらいたで、小うるさく、いろいろ言われんのよ。わかるでしょ?」。御年89歳で今もいたって元気なご母堂を持つ女友達が、吐き捨てるように言った。う~ん、それもわからんでもない。