連載:子育てエッセイ 坂上みきの「君はどこから来たの?」・26 子宮ポリープの摘出と、待てない女の無謀な行動
ラジオパーソナリティ・坂上みきさんの人気連載!
ひょんなことからニュージーランドの男性と出会い、
紆余曲折を経て、息子が生まれた!
日々雑事に追われつつ、その感慨をかみしめる新米ママの
一喜一憂を大公開。
この連載は……
結婚後、大きな決心をして、子どもを授かるに至ったラジオパーソナリティ・坂上みきさんが、一人息子との触れ合いや友人たちとの会話を通して遭遇するさまざまな感情をストレートに伝えていきます!
1%でも可能性が高まるなら!
長い長い不妊治療で、最もつらかったのは、前に書いた“流産”で、もう一つは、子宮のポリープの摘出手術だろうか。
不妊治療のため最初に選んだ病院では、なかなか成果が出ず、知人に紹介された2番目の病院で初めて診察を受けた際、「子宮にポリープがありますね。そのために着床しないのかもしれません」と告げられた。
「切りますか?」
「えっ?」
心の準備ができていなかったので、一瞬、逡巡したが、ここまで来て何をためらうことがあろう。1%でも子供を授かる可能性が高まるのだったら、やるしかないでしょう。「わかりました。切りますとも!」とキッパリ。
40代後半までの私は、病気知らずだった。
30歳からラジオの帯番組で20年近くお喋りしていた、というのも大いに関係すると思う。ラジオを始めた早々の時期に、実はヒドイ風邪をひいて、2~3日、鼻声のままで仕事をつづけていたら、当時のプロデューサーがつつーと静かに近づいてきて「代わりは、いくらでもいますから」とささやき、すっーと去っていったのだ。
昨今なら、パワハラと受け取られかねない物言いだけれど、まだそんな言葉もないし、そんなことで逆切れする風潮もない。「すいませんでした」と深々頭を下げ、ピッと背筋が伸びた。すぐさま、病院で注射を打ってもらい、とっとと帰宅して夕方にはベッドに潜り込み、「明日には、風邪を完璧に治してやる」と拳を握りしめ眠りについたものだった。
以来、気が引き締まり、ラジオの生放送をレギュラーで持っている間は、風邪ひとつひいたことがなく、「頑丈っすね」とまわりに呆れられるほどだった。働きざかり期の「緊張感」というのは、実に有能。肉体のコントロールまでしてくれていたのだね。
元気なカラダのおかげで手術など一度もしたことがなく、一抹の不安はもちろんあったけれど、「頑丈」に裏打ちされた「私は大丈夫」という自信のほうが勝(まさ)った。
聞けば、内視鏡なので、傷のダメージもなく、日帰り手術だという。
「いつにしましょう?」
こちら的には、いますぐOK!な勢いで尋ねると、「大学病院では数か月先まで、予約でいっぱいなんですよ」とつれない返事。
「え~と、高齢ですので、1日でも、1時間でも早くやっていただきませんと」と詰め寄ると、「週末、別の個人病院で執刀しております」と、その先生。
「そちらでよければ、来週にもできますよ」
なんだ、早く言ってよん。
「お願いします」と即答し、子宮というお部屋が、居心地よくつるんと、きれいさっぱり、リノベーションされることを心待ちにした。
待てない女がとった行動とは!?
その病院は、都内とはいえ随分、遠方にあり、電車を乗り継いで、見知らぬ下町の駅までやってきた。商店街をくぐり抜けたその先に、古ぼけてはいるが、想像以上に立派な構えの病院があり、ほっと安堵したのを覚えている。
待合室は、下町のおじいちゃんとおばあちゃんでごった返していた。地元の方に信頼されているのだろう。でも、場違いのところへ来ちゃった感は否めない。
ほどなくして、診察室へ通されると、先生が、待ち構えていた。
簡単な診察の後、「ではさっそく、手術いたしましょう」と案内された、廊下を挟んだ向かい側の手術室にテクテク歩いて入ると……、あら、驚いた。全体にレトロな雰囲気だなぁとは承知していたが、簡素な手術室は、さらに時代をさかのぼり、「昭和初期」「戦後」「野戦病院」そんな単語が次から次へと浮かんでくるような時代がかったものだった。
さらに、中央のベッドに目をやると、両サイドに木の支柱が立っていて、その上に大きなかまぼこ型の板が、床と平行にのっかっている。何十年と使われてきたのだろう、板はワックスをかけたようにあめ色に光っていた。脚をその板に乗せ開脚する装置?道具?とお見受けした。2本のやや大ぶりな「ししおどし」にも見えなくもなく、コーン、コーンと今にも高らかに音が聞こえてきそうだった。
ご存知かしら? 今どきの婦人科系では、開脚装置は、トランスフォーマー的ハイテクマシーンだ。椅子に座ってさえいれば、そのままギュイ~ンと回転しながら寝っ転がる状態で上にのぼり、いつのまにか脚も開かされていて、ドクターの目の高さにピタリと止まる。そのマシーンに慣れていたものだから、いやはや。
不安を通り越して、笑えてきた。ここまでくれば、覚悟するしかない。
コーン、コーン、ししおどしの幻聴のせいか、あっという間に麻酔が効き、次に目を覚ました時には、病室に横たわっていた。
「ここは、どこ?」
病室と認識するにも、時間を要した。というのも、その部屋は、病室と呼ぶには、長すぎた。幅は、ベッドの横、人が1人歩けるくらいしかなく、なのに、縦は、あとベッドが2つは入るでしょ、ってくらい長い。
どうゆう設計図をひくと、このような部屋が出現するのか? 窓は、頭の先の遠くのほうに小さくひとつあるだけ。「薬品庫かなにかだったのだろうか?」よく見ると、天井にも、壁にも無数のシミがある。急に滅入ってきた。
確か、病室で十分に休息をとり、先生の回診を待って、「いいですよ」と許可が下りたら、帰ってもよし、という指示だったと記憶するが、もう、この「シュールな世界」に十分付き合った。痛みもないし、ええい、帰ってしまえ!
本当に、人間ができていない、というか、待てない女なのです。
この無謀な行動により、その夜、麻酔が切れたころ、お腹に激痛が走り、横たわったまま一歩も動けなくなってしまった。救急車を呼ぶにも、携帯をリビングに置きっ放しで、そこには到底たどり着けそうにない。意識が朦朧とする中、遠くで電話が鳴っている。「死んじゃうのかな?」「死ぬまでにしたかったことって、なんだろう?」うんうん唸りながらも、そんなことをつらつらと思い巡らしたりもした。
「海辺でのんびり暮らすのが夢だったなぁ」
そしていつのまにか、意識を失っていた。
翌朝、生きていた私は、嘘のようにスッキリし、慌てて着信履歴を確認。病院からだ。電話口で、先生にこっぴどく叱られた。当たり前か。
そのポリープ除去手術のおかげで、子を授かったかどうかは、わからない。
というのも、実際に息子が産まれたのは、もっと何年も後のことだったからだ。
でも、あの、一連のちょっと摩訶不思議な体験によって、私の中で、何かが少し変わった。やりたいことは、やれるうちに、やっておかねば。
火事場の馬鹿力? 怪我の功名? あの手術の1週間後、すっかり快復した私は、海辺の町の不動産屋さんに飛び込んでいた。
あれから、12年。子供がいる生活では、のんびり暮らすことはできないが、あの時ご縁があった海辺の家は、私たち家族が、週末羽を休める、もう一つの基地として、なくてはならないものになっている。